空也上人。
平安時代の僧。
京都の六波羅蜜寺に安置されています。
教科書などで見たことが一度はあるかと思います。口から何やら出ているおかたです。
「捨ててこそ空也」(梓澤要著)を読みました。
急に無性に、空也上人が気になって仕方がなく、
図書館で借りて読んだうちの1冊です。
フィクションが苦手で普段めったな事では"小説"は読まないので、
とても珍しい事です。
歴史や時代のものを最後まで読んだ事もとても珍しいです。初めて?
いつも必ず早々に挫折します。
物語の中には多くの心に残る場面や言葉がありました。
執心を捨て去ってこそ、初めて無心になれる。「捨ててこそ」といったのは
そういう意味だ。智慧も、愚痴をも捨て、善悪の境界を捨て、
貴賤上下それぞれの価値観や道理をも捨てる。
地獄を恐れる心を捨て、極楽を願う心も、悟りを望む心をも捨てる。
心の一切を捨てきってこそ、自分自身を捨てたことになる。
ちっぽけな自我意識を捨てて、はじめて、真の自分自身を見出すことが出来る。
と空也さんが言っておられました。
その前に「執心」に関する心に残るやり取りがあります。
昨年末気になり、再読した「ヤノマミ」(国分拓著)の深く印象に残った箇所を
思い出しました。最後のほうに書かれていました。(あとがきだったかな?)
(ヤノマミ、アマゾンの先住民族。ヤノマミ=人間という意味がある)
自分は(著者)何者でもないのに、万能のように錯覚してしまう事や、
さも「善人」のように振る舞うことや、人間の本質が全て「善」
であるかのように思いこむことに慣れ切った人間だ。
ヤノマミは違う。レヴィ=ストロース(フランスの人類学者)が
言ったように彼らは暴力性と無垢性とが矛盾なく同居する人間だ。
善悪や規範ではなく、ただ真理だけがある社会に生きる人間だ。
言葉のうえだけでなく、ヤノマミという民族の生活を読んだうえで
深く深く残りました。
「ヤノマミ」現存するアマゾン先住民族のお話
全く分野の違いそうな2冊から共通する教えをもらった気がします。
人間の原点というか、なんというか…
日常の気持ちに、いかしていきたいです。想い起こせるようにしたいです。
今年はこれまでと違う本も読んで、固まりつつある脳を活性化させよう
と思ったのでした。